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かごしま歴史街道

桜島つれづれ


 紺碧の錦江湾にどっかりと腰を下ろし、悠々と噴煙を上げる世界有数の活火山・桜島。
 朝な夕なに目に入る桜島は、一日に七度も変わるといわれるほど様々な表情を見せてくれます。夜明けと共に昇りゆく朝日に黄金色に染まる山体は陽が高くなるにつれ濃い群青色へと移ろい、夕方には朱色のオレンジに染まりどこかノスタルジックな雰囲気さえ醸し出します。
 有史以来、幾度の大噴火で山肌を削り裾野を広げ、大量の溶岩流出で全てのものを焼き尽くし、安永噴火で誕生した小島を跡形も無く飲み込んでしまうほどの火山であるものの、一方で温泉の湧出、独特の景観や地質など多くの恵みをもたらしてきました。人々と活火山が共存し、訪れる人々を魅了してやまない“鹿児島のシンボル・桜島”の歴史や意外と知られていない小話をご紹介いたします。


■桜島の誕生
 桜島の北側の錦江湾がまだ陸地だった2万9000年前の超巨大噴火によって姶良カルデラが形成され、2万6000年前の姶良カルデラの南端での噴火活動が桜島誕生の歴史の始まりで、その後現在に至るまでに17回の大噴火を起こしています。
 桜島で最初に誕生したのが北岳(御岳1117メートル)で、約5000年前には噴火活動を休止しています。
 次に南岳(1040メートル)が4500年前に誕生し、以来今日まで火山活動を繰り返しています。ここ数年火山活動が活発なのが南岳八合目に位置する昭和火口で、昭和28年に噴火し一旦は小康状態にありましたが、2006年6月には再び噴煙を上げ58年ぶりに火山活動が活発化しています。


■桜島の名の由来
 『桜島』という字面から、たくさんの桜の木があり春には満開の桜がどこかしこで見られる島・・・というイメージにかられますが、実際の島内にはそのような場所はありません。
 桜島の名の起こりについては諸説ありますが、桜島港正面にある月読神社のご祭神「コノハナサクヤヒメ」にちなんで“さくやじま”と呼ばれていたものが“サクラジマ”に変化したとか、平安時代にこの島の太守であった桜島忠信が詠んだ歌が世に広まり、太守の名にちなんで島の名が付いたなどあります。

 
■桜島に暮らす

▲クリックで拡大します


 鹿児島市から約4kmの距離に位置する桜島は、東西約12km・南北約10km・周囲55km・面積約77平方kmの大隅半島に陸続きの島で、18の町に約6000人の人々が暮らしています。
 農業に適した扇状地の広がる西桜島エリアでは、桜島大根や糖度の高い桜島小みかんなどが栽培されています。東桜島エリアは起伏の多い地形となっており耕作面積は狭小であるものの、斜面を活かしてびわの栽培がさかんで季節には袋がけをした多くの枇杷の木を目にすることができます。今でこそ道が整備され車両も通行できるようになりましたが、昔は狭い道も多く車の往来も難しいことから、頭の上に荷物を乗せ首と腰で巧みに調子をとりながらの頭上運搬で、急で狭い坂道を上り下りする女性も多かった所です。
 また、溶岩原の広がる桜島では水の確保も非常に困難で、お嫁さんが水を汲みに行き頭上運搬で運んでくるのが日課だったそうです。その後、島内には上水道が整備されましたが、従来の工事のように水道管を溶岩原に埋設することができずあらわになってしまっているため、真夏に蛇口をひねると水でなくお湯が出てしまうという、桜島ならではの水道事情があったものでした。また、桜島を訪ねると、火山灰の堆積を考慮して、雨樋が設置されていない家屋が多いのも特徴的です。


■火山灰はどこへ・・・?
 桜島の噴火に付き物なのが、何とも厄介な火山灰です。春から初秋辺りまでは鹿児島市内方向へ、初秋から春先に大隅方向へと季節風に乗って火山灰が飛散します。この火山灰への対策として、ローカルニュースでは天気予報コーナーにて『桜島の風向き予想』なるものがあります。県民、特に主婦の皆さんが洗濯物はどこに干すかなど、予報を見ながら思案することは日常的です。
 また、街の至る所に見られる火山灰専用の『降灰ステーション』は、鹿児島市内だけでも約6000箇所もあり、収集された火山灰は袋ごと指定処分場にて埋め立てられています。


■大正噴火
 国内における20世紀最大の噴火といわれているのが、大正3年(1914年)1月12日に始まった『大正噴火』です。
 桜島の西側山腹海抜300メートル付近にある引ノ平権現の谷間で噴火が起こり、その10分後には764年の天平宝字噴火で形成された東側山腹の鍋山から噴火、午後2時30分頃には上空10,000メートル付近まで噴き上げた黒煙で太陽も遮られ、辺りはたちまち真っ暗闇になりました。流出した溶岩は約33億トンといわれ、小池・横山・赤水の3集落や安永噴火で湧き出でた小島の『烏島』もたちまちのうちに埋め尽くし、流れの速い瀬戸海峡を埋め、洋上にぽっかり浮かんでいた桜島は大隅半島と陸続きになりました。
 大正噴火が起こるまでに幾多の前兆現象となる異変が確認されており、噴火の2〜3日前からの微弱地震、高濃度の火山ガスの噴出、井戸水の水位の変化や海水温の上昇、冬眠期にあるはずのヘビやカエルが地上で目撃されるなどが記録されています。
 一方、地震など噴火の前兆に不安を覚えた桜島の島民の約8割は、噴火の直前までに対岸の垂水・牛根・鹿児島市へと避難したものの、測候所の『大噴火はない』という通達を最後まで信じていた人々は逃げ遅れ、海岸に取り残された人や沖の船へと泳ぎ向かうのに溺死した人など、結果的に140名の死傷者が出ています。
 桜島の大噴火の歴史が語られるにあたって、あまり地震のことは挙がりませんが1月12日午後6時40分には、噴火に伴うマグニチュード7.1の非常に強い地震が発生し、対岸の鹿児島市内でも家屋の倒壊が激しく、これにより死者約30名、負傷者約100名を記録しています。


▲噴火・降灰の凄まじさを物語る黒神の鳥居▲


■林芙美子と古里温泉
 桜島の温泉郷・古里温泉の一角には『林芙美子文学碑・古里公園』あります。
 昭和25年に女流作家として成功した林芙美子の母・キクの実家は鹿児島市で漢方薬の店を営んでいたものの西南の役の戦火で消失し、一家で古里温泉に新天地を求め温泉宿を創めます。明治36年に桜島を訪れた太物の行商人・宮田麻太郎と恋に落ちたキクは、桜島を離れ下関で生活します。
 下関の地にて明治36年12月31日に芙美子が生まれますが、大正3年、芙美子が1歳の時に桜島に住む祖母フユのもとに預けられます。芙美子にとって桜島の生活は母を恋しがっては泣く日々で孤独と絶望のどん底にあったといわれ、その頃のことは小説やエッセイの一文にも描かれています。
 昭和26年、心臓を患っていた芙美子は、いくつも連載中のまま心臓麻痺により短い生涯を閉じています。彗星のように文壇に登場し自由奔放に生きる女流作家といわれてきた芙美子の内実は、誕生から孤独との闘いでわびしく苦しい生活だったようです。

『花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かりき』

 芙美子が好んで色紙などに書いていた短詩が刻まれた文学碑と、本を小脇に抱えた芙美子の像が公園内に建立されており、毎年『芙美子忌』が開催されます。



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