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■どんな殿様


 島津斉彬は文化6(1809)年、島津家27代・薩摩藩主 島津斉興の長男として江戸で生まれ、嘉永4(1851)年、43歳の時、28代・薩摩藩主に就任する。斉彬は幼少のころから、外国の文化に深い関心を示した曽祖父 重豪に強い影響を受けて、斉彬自身も海外の情報、文化に精通するようになった。当時の世界は、イギリスやフランスなど西欧列強が極東アジアに進出を始めた時期だった。特に、1840年にはアヘン戦争が起き、アジア最強の大国、清国(中国)がイギリスに完敗、香港割譲などの不平等条約を押しつけられ、半ば植民地化される。こうした世界情勢に強い危機感を持った斉彬は、藩主就任と同時に富国強兵、殖産興業政策を強力に推し進めた。これが、我が国の近代化の第一歩となる。

集成館 その中核となったのが、鹿児島市内の磯地区を中心に着手した集成館事業だった。造船、造砲、製鉄、紡績、ガラス、印刷、電信、医療、福祉など、様々な分野に及び、全国に先駆けて産業の近代化を目指す画期的な事業だった。
 斉彬は、軍事力の強化ばかりでなく、領民の暮らしが豊かになるように紡績、食品などの民需産業の育成や教育水準の向上など社会基盤の向上にも力を入れた。また、斉彬は西欧列強に対抗するためには薩摩だけが強くなっても駄目で、日本全体が軍備、産業や諸制度を近代化していくべきだと考え、幕府や各藩に富国強兵策の導入を呼びかけている。
 しかし、斉彬は藩主就任から7年後の安政5(1858)年、50歳で突如、死去する。集成館事業は一時、後退し、さらに、文久3(1863)年の薩英戦争で壊滅的な打撃を受ける。しかし、逆に、この戦争で圧倒的な西欧の軍事力を見せつけられた薩摩藩は対戦相手のイギリスに留学生を送るなど、本格的な西欧の文化技術の導入を図る一方、集成館事業の再建に乗り出す。

若き薩摩の群像 斉彬の藩主在任期間は7年間と短かったが、斉彬の近代国家への夢は、弟の久光、その長男で12代藩主となる島津家29代忠義をはじめ、西郷隆盛、大久保利通、大山巌、寺島宗則、黒田清隆ら多くの家臣団に引き継がれ、ついに、明治維新の原動力として力を発揮することになる。しかも、明治政府が真っ先に取り組んだのは、まさに斉彬が集成館事業を通して実現を目指した近代国家日本への改造だった。
 NHKの大河ドラマにより、最近では将軍家の御台所となった天璋院篤姫の養父として有名になったが、斉彬は時代がよく読める、先見性に優れたリーダーであり、我が国の近代化の歴史を語る時、決して忘れてならない名君である。

■ゆかりの地を訪ねてみよう


◇磯地区=鹿児島市吉野町

仙巌園 我が国初の産業近代化のモデルともいえる集成館事業が展開された地域である。当時の建物や施設の多くが戦火で焼失したが、島津家別邸・仙巌園と国指定跡・集成館の2つのエリアにまたがる。一帯には国の重要文化財である旧集成館機械工場(現尚古集成館本館)をはじめ貴重な遺跡や史跡が数多く残されており、鹿児島を代表する観光スポットともなっている。また、これらの文化財を含めた九州・山口の近代化産業遺産群は2009年、世界遺産の国内暫定リストに記載された。
 斉彬が手がけた事業の足跡をたどりながら、その一部を紹介しよう。

◇鹿児島城跡(鶴丸城)=鹿児島市城山町

鹿児島城跡 約400年前に城山の麓に築かれた薩摩藩の居城跡。天守閣はなく、屋形造りの平城で、鶴が翼を広げたような形をしていたことから、鶴丸城とも呼ばれた。明治時代になり、火災や西南戦争で焼失、今では石垣とお堀の一部を残すのみだが、大手門には青銅製の擬宝珠がついた石橋がかかり、夏のお堀には蓮の花が咲き乱れ、訪れた人たちを楽しませてくれる。城跡の広場には「県歴史資料センター黎明館」などがある。
 江戸で生まれ、江戸で育った斉彬が鹿児島城に留まる期間は短かった。安政4(1857)年5月の帰国から1年余が最後の滞在となる。

◇天保山御陣屋跡=鹿児島市下荒田2丁目

島津斉彬公御陣屋址 欧米列強のアジア進出に危機感を持った斉彬は海防のため沿岸各所に砲台を築造する一方、軍隊の調練にも力を入れた。天保山一帯を調練場に定め、大々的な調練が行われ、斉彬自身が指揮を執った。天保山中学校の敷地内にある御陣屋跡は、その指揮所だった。
 特に、頼りにしていた老中阿部正弘の死去、後を継いで老中に就任した、安政の大獄で知られる井伊直弼の幕政を糾すため、斉彬は薩藩の精鋭を率いて上洛、朝廷を守護し、幕政改革に乗り出そうと決意、軍事演習に一段と励んだ。安政5(1858)年7月6日も陣屋に陣取り、炎天下の中、練兵を指揮した。演習を終えると高熱を出し、10日後に死去した。

坂本竜馬とお龍の像 近くの天保山公園内には、当時の砲台の一つ、天保山砲台跡がある。文久3(1863)年の薩英戦争では集成館で造られた大砲が威力を発揮し、イギリス側にも大きな損害を与えたが、最新鋭のアームストロング砲を備えたイギリス艦隊の猛攻の前に、わずか3時間で城下は壊滅的な打撃を受けたという。
 また、近くの道路脇には、日本で最初の新婚旅行といわれる坂本竜馬とお龍の銅像もある。

◇照國神社=鹿児島市照国町

照国神社

島津斉彬公の像 斉彬の死去後、朝廷は斉彬の功績を称えて照國大明神の神号を授けた。弟の久光と藩主忠義は元治元(1864)年、城山山麓に照國神社を建立した。その後、社殿は西南戦争や昭和20年の空襲により焼失したが、復旧された。斉彬に対する県民の敬愛の念は今なお強く、照國神社は鹿児島市民から氏神様的な存在として親しまれている。
 境内と隣接する探勝園には、斉彬、久光、忠義3公の銅像がある。いずれも彫刻家、朝倉文夫の作で、大正6(1917)年に建立された。
 また、探勝園は鶴丸城二の丸の庭園の跡で、今もその名残をとどめている。同時に、日本で初めてモールス信号による交信に成功した斉彬が、この庭園と600メートル離れたお城の間で交信を実演して見せた所としても知られる。

◇玉龍山福昌寺跡と斉彬の墓所=鹿児島市池之上町

斉彬の墓所 島津家歴代の菩提所で、6代師久から28代斉彬、弟久光、その一族の墓がある。応永元(1394)年の開山で、かっては1500余の僧侶がいたという名刹だったが、明治2(1869)年、廃仏毀釈により破壊され、廃寺となった。ただ、寺の後方の山麓にあった広大な墓地だけは残り、寺の跡地には市立玉龍高校・中学校が建っている。
 斉彬のお墓は、墓地正面に向かって左側の奥にある。並んで妻の英姫の墓石があるほか、近くには子供ら親族も眠っている。
 門が開いておれば、一般の人もお参りできる。
(鹿児島市内の主なものを紹介しました。鹿児島市以外にも数多くのゆかりの地があります。情報を知りたい方は尚古集成館=電話099−247−1511、鹿児島県観光課・観光かごしま大キャンペーン推進協議会=代表電話099−286−3006まで)

■記念事業に出かけよう


島津斉彬生誕200年記念特別展示

「島津斉彬〜大海原に夢を抱いた殿様」
会期 2009年9月17日(木)まで
会場 尚古集成館別館
(有料)

◇島津斉彬生誕200年記念シンポジウム

日時 2009年9月27日(日)13:30〜16:30
会場 宝山ホール(県文化センター、鹿児島市山下)
出演 俳優・高橋英樹氏 尚古集成館館長・田村省三氏ほか
入場無料
 〒892-0871鹿児島市吉野町9700-1仙巌園事業企画室シンポジウム係へ(往復はがきで申し込む)

◇島津斉彬生誕200年記念第50回仙巌園菊まつり

会期 2009年11月1日(日)〜11月23日(月)
会場 仙巌園
内容 斉彬が推進した集成館事業のすべてを菊花、菊人形で描く

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