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■ 古武道家・庵木英雄会員  大東流合気柔術演武映像(2011/04/11掲載)


■庵木師範・表三段演武:画面をクリックすると、映像を見ることができます。

 大東流合気柔術という名称の通り、この武術は筋肉力で関節を攻める技と 丹田・呼吸法により相手の動きを利用する技の二面から構成されています。
 近代合気道と違って、柔術系古武道に属し、この丹田・呼吸法を使って身体操作し、技にかかった相手は何故投げられたのか倒されたのか理解できないという不思議な感覚を味わう。
 榎木孝明氏は俳優、日本画家のほか、示現流他の古武道を修行されており、先般の4世代フォーラムの講演で、日本人は明治維新以後、丹田を鍛えることを忘れており日本の伝統文化の裏にあるこの「ハラ文化」を見直す必要がある旨の話しをされた。
 この大東流も古武道の立場に立って、丹田呼吸法を重視し伝承維持しようとするものであり、外国人が(近年ますます盛んになっている)魅力を感じているのもこの点にありそうである。

■ 古武道家の庵木英雄会員 鹿児島国際大学で特別講義
講義の要約を収録


 古武道家で大東流合気柔術琢磨会鹿児島支部長の庵木英雄会員はこのほど、鹿児島国際大学地域創生学科のオムニバス講座で2回にわたり、特別講義を行った。「古武道―温故知新」「古武道の伝承―世界に誇れる伝統文化・精神文化」「技の伝承」「鍛錬法」の各章にわたり、実演を交えながら古武道の真髄に迫る講義は学生たちを魅了したようだ。大学側の了承をえて、その要約を収録する。

■ 古武道温故知新―庵木会員講演【内 容】


<古武道―温故知新>
  明治維新以降の近代化の過程で、私たち日本人は何か大切なものを置き去りにしてきたのではないか?それはなんだろうか?
  最近、日本人はナーンかおかしいのではないか。精神的な面、経済的な面、或いは政治的な面で。これを考える切り口を、古武道に求めて見たいと思います。文武両道という車の両輪の一面、すなわち武道修練の過程で人間の体に何か大切なものを遺伝子として残してくれているのではないか?特にサムライの中に。
  この「古」の意味するものは古い、古臭いということではありません。古くから存在するという意味であります。この全体の講座の目的は地域創生学ということでありますが、私の話は個体の創生、肉体の創生ということではないかと思っております。古武道といいましても非常に範囲が広いわけです。ここでは私が修行している大東流合気柔術を例に致します。この大東流伝承の裏面には、敵同士だった会津藩の最後の家老、西郷頼母と薩摩の西郷隆盛との交流、明治時代になると、隆盛の弟の西郷従道を筆頭に鹿児島出身の陸海軍大将クラスの幹部が大勢、会津藩出身の師に就いて修業していた事実が、資料から判明しています。
  さて、武道では事理一致ということを重要視いたします。
  武道修練に使われる言葉には心身不測不離、心身一如、明鏡止水、生死一如など難しい表現がなされますが、これらの事を包括する言葉として事理一致と表現されます。体の限りない過酷な修練の中から精神的な悟りに近づく、というのが順序であります。
  宮本武蔵の独行吟からよく引用されます「我事において後悔せず」とは、事理一致の「事」のことを言います。始めに行いありき、すなわち私=宮本武蔵が体で修業し悟ったこと、身体の使い方については後悔していない。すなわち剣の修行道について後悔はしていない。理論は一切言っていませんよ、という意味だろうと思います。
  聖徳太子の17条憲法の中にも、この事理という言葉は使われています。
  「一に曰く、和を以って貴しと為し、(中略)上和らぎ下睦びて事を論(あげつら)ふに諧(かな)ふときは、すなわち事理自ら通ふ。何事かならざらむ」
  鹿児島弁の「議を言うな」は現代では悪い言葉の例として引用されますが、行いをせずして「理屈だけ言うな!」「議ばかり言うな!」「まず実行せよ」ということでしょう。
  宇宙の運行は事、宇宙理論は理。行動は事、言葉、感覚は理であります。始めに行いありき というわけであります。ただし、理論だけの世界というものもある。哲学、論理学、心理 学、会話、外国語など大いに「議」が上手くなればいいという分野ですね。

<武道の伝承―世界に誇れる伝統文化・精神文化>
  一般的な古武道の伝承の仕方を、この事理一致という世界からお話します。
  まず一流一派を編み出した創始者は、「一子相伝」という形でわが子に伝えます。子供がたくさんいる場合一人を選んで、ただ一人に伝えます。以後伝承の系図とともに虎の巻として皆伝書を伝えます。いわゆる免許皆伝です。
  一般的に芸能・武芸の稽古事に守・破・離ということが言われます。
  守とは型に入る事。徹底して基本的な形に習熟することです。
  破とは型を出ること。自分に合うように型を変えることです。
  離とは基本の型に捕われる事無く型を離れること。全く異なる型を編み出すこと、融通無碍になることです。
  1流1派の伝承には、この守が徹底して守られなければなりません。しかし、これで技の全貌を伝えたわけではありません。一番大事なことは、口と身体で伝えます。別に口伝あり、としました。教外別伝といいます。
  何百年も昔に起こった武道としての流派が多くの文物とともに現代まで生きている。これはまさに文化遺産であります。
  鹿児島県古武道振興会というのがあり、10流派で年1回演武大会を開催しています。今年は41回目。日本古武道大会が昨年2月、熊本で第30回大会として開催されましたが、これより10年古い歴史を持っています。どの流派も伝承(証拠=虎の巻)とか系図を重視しております。
  いずれにしろ大変な極秘事項として「事理一致」したものとして伝承されてきました。江戸時代には各藩が「藩内お留め技」として、むやみに藩外または他人に教えることを禁じた。現代でいいますと核拡散防止法みたいなものですね。この武道精神を現代に受け継いで行こうと するものに、日本武道協議会が制作した「武道憲章」があります。 柔道・剣道・弓道のような現代の武道といえども、この古武道の精神を脈々と伝えているわけであります。

さて、わたし共のこの大東流の伝承というものついて申し上げます。系図で示しますと、
  新羅三郎源義光――武田義清――信義――信義信光――信重――信満――国継――(省略)――惣右衛門――武田惣角――久琢磨――森 恕(現在77歳)となります。  日本武道館が日本の古武道を記録に残そうと動き始めて、その第1号にこの大東流が採用されました。
  始祖は新羅三郎源の義光で、約900年前に遡ります。八幡太郎義家 、賀茂の次郎3兄弟の三番目であります。後三年の役(1083〜1087年)で活躍したと伝えられています。 始祖については3つの口承、言い伝えがありますが、手首のきめの研究のため、兵士の死体解剖をした話は有名です。 
  会津藩最後の家老、西郷頼母を師とし、深い交わりのあった武田惣角は中興の祖といわれる働きがありました。小さい頃より相撲、剣術を教わり、祖父より武田流柔術を習っています。もちろん、大東流は会津藩の「お止め技」として保存されました。
  会津藩は白虎隊の壮烈な戦いなどで良く知られているように、多くの悲劇とともに滅んでしまいます。
  西郷頼母一家にも、その妻子親族21名の自決という大変な悲劇があります。
  ご参考までに言いますと、小説「姿三四郎」のモデルは、頼母の養子となった西郷四郎といわれておりますが、最後は尾道で亡くなっています。
  全てが焼き尽くされ、藩が崩壊した後に残ったのが大東流という、この武道であります。そして、誠に不思議な縁ながら、会津と敵対関係にあった薩摩の多くの人たちが、この大東流を習っています。
  さて、薩摩と会津の関係について、あまり知られてない点についてお話いたします。それは公的には会薩同盟というのがありますが、薩摩西郷と会津西郷との密かな交流があったという、この不思議であります。
  西郷頼母について簡単に触れておきます。この人は会津藩が京都守護職に任命されたとき、真っ先に「辞退あるべし!」と反対し、任の途中においても会津からわざわざ京に出向き、早く辞退するように藩主、松平容保に諌言したり、戊辰戦争のときは白川口戦列の隊長として官軍と戦って藩主を助けて見たり、一藩全員、籠城戦のときには藩主の密命を帯び、息子を連れ城を抜け出すということもしています。かと思うと北海道五稜郭まで転戦して、ここで官軍の捕虜となり、また釈放され、ひとり会津に帰っています。
  両西郷交流の事跡の1つとして、隆盛が頼母に送った書簡が京都市内の霊山神社資料館に残っています。
  ところで、どんな薩摩人が大東流を習ったか。頼母の弟子で、流派の中興の祖となる武田惣角が残した「英名録」に、多数その名が記されいます。
  例えば、明治20年 西郷従道(隆盛の弟、英名録の筆頭に署名)、明治25年 野津道貫、明治43年 財部実秀、大正14年 竹下 勇(海軍大将・連合艦隊長官)などです。
  稽古に熱心だった竹下勇は日記の中で、「陛下の赤子の一人として報国のため、常に自分の健康ヲ維持、確保し、強健なる体格となることを要す」という趣旨のことを述べています。こうした動機で、竹下は毎日柔術に励むことになるが、その普及にも尽力しており、その点を見逃すことは出来ません。

<技法の伝承>
  大東流合気柔術の場合、技数2884手といわれ、膨大な数字になります。しかし、その技法を大別すると、関節の順逆を攻める関節技、生理的弱点を刺激する急所技(けいらく技)、心機呼吸をはかって制する合気技があり、いずれも体と体の触れ合いでなければ伝えることはできません。
  昭和なって久琢磨が大阪朝日新聞社時代に、師の武田惣角から教わった技を初めて写真に撮り、千数百枚を解説と共に残しました。その一部は「惟神の武道」「女子護身術」として本の形で残っています。この写真集は、一般に「総伝集」と呼んでいますが、後に、久琢磨が惣角よりただ一人免許皆伝を受けるわけであります。
(主に実技を中心に講義は進んだ)

<鍛錬法>
  武術の稽古は当然呼吸法とか、へそを中心にした下腹部を指す「丹田」の鍛錬を伴っていました。ただ、残念なことに、どう鍛えたかについて、武道書に残されていません。余りに当然なことなので、記録されてないのでしょう。例えば、日本人にはお箸の使い方を特別に教える必要がないのと同じことかもしれません。その辺の状況を出来るだけ資料に基づいて述べてみます。
  有名な空手の達人だった故・大山倍達は、その著書「昭和五輪の書・水之巻」(1985年 PHP研究所から発行)の中で、「臍下丹田」を「へそ」に言い換えて、「柔道の三船久蔵範士は相手のへそを狙え」とか「剣道は中段正眼の構えをするとき左拳(コブシ)はへそから前拳一つくらいのところに保て」とか、居合い抜きでは「ヘソで切れ」とか、巨人の荒川コーチが当時の王選手に1本足打法を教えたとき、「ヘソで打て!」と言い聞かせたそうです。さらに、臍下丹田や呼吸法について詳しく分かりやすく書いておられます。
  これらは何れも、運動力学的に正中心線上のポイントをつかませるための分かりやい比喩としてヘソを借りた例であろうが、武道においてヘソの価値がより重要視されるのは、いわゆる「臍下丹田」あるいは「臍輪気海」などと称されるがごとき心身相関な働きの意味合いにおいてであろうかと思います。
  武田惣角の教えた合気柔術は現代でも、近代的合気道として、身体柔軟法として、気の操作法として、経絡療養法として、警察官逮捕術として色々な方面に片鱗を残しています。
  実技として説明します。文章では真意をつたえられませんので省略します。呼吸法は催眠術につながりますので、師について正確に習得すべきであります。いずれにせよ横隔膜を出来るだけ上下に動かし呼吸筋を鍛える必要があります。横隔膜は前は肋骨、後ろは腰椎に結びついています。そのほかに稽古の前に行う独特の柔軟体操法があり、肩甲骨、仙骨周辺の内筋を鍛えるのに役立ちます。
  (実技、実演が披露され、講義は終了した)

鹿児島国際大学地域創生学科 オムニバス講座
大東流合気柔術琢磨会
鹿児島県支部支部長
庵木 英雄 会員

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