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■ 篤姫ってどんな人


天璋院 篤姫  ドラマのヒロインである篤姫(あつひめ)は天保6(1835)年、今和泉島津家の島津忠剛の長女として鹿児島城下で生まれた。幼名を一子(かつこ)という。子供のころの記録は少ないが、幼いころから身体も大きく、聡明で、学問を好んだという。
 将軍家との縁談話が持ち上がり、一躍、歴史の舞台に登場することになる。
 嘉永6(1853)年、篤姫は開明派の藩主として知られる島津斉彬の実子となる。その数年前から将軍家より13代徳川家定の御台所にふさわしい娘はいないか、という打診を受けていた。申し出を受けた斉彬には年頃の娘がいなかったため、今和泉家の篤姫に白矢の羽を立てた。
 斉彬らが大奥工作をさせるために仕組んだ縁談話という通説もあるが、これは誤りのようだ。家定は元来、病弱で子宝にも恵まれなかった。それに引き換え、同じ島津家の重豪の娘、広大院を御台所とした11代家斉は子宝、長寿共に恵まれており、その前例にあやかりたいと、将軍家側から強い働きかけがあったというのが真相のようだ。
 ペリーの来航など国内外の混乱で輿入れが遅れ、安政3(1856)年12月になって篤姫はようやく江戸城に入る。嫁入り道具などの一切の準備は西郷隆盛によってなされたという。
 後継将軍をめぐる対立などが続いた後の安政5(1858)年、夫、家定は35歳の若さで死去。22歳の篤姫は髪を切り、天璋院と号した。
 天下は明治維新に向けて激動の時代を迎える。篤姫は14代将軍家茂の御台所となる和宮と共に大奥を束ねた。一方で、実家である薩摩藩が討幕運動の中核となったことで、辛い立場に立たされ、苦悩を強いられるが、一貫して徳川家の立場に立ち、徳川家存続を嘆願するなど徳川家のために力を尽くした。明治16(1883)年11月20日、48歳で死去。生涯、ふる里の地を踏むことはなかったという。
 
 大河ドラマの原作となる宮尾登美子さんの作品「天璋院篤姫」では、波乱の時代を生き抜く篤姫という生身の女性像が、鮮明に描き出されている。

■ 篤姫ゆかりの地めぐり


 篤姫が生まれ、育った鹿児島市と幼少期を過ごした指宿市にわかれる。
 生まれた所とされる今和泉島津家の本邸屋敷跡は鹿児島市大滝町の大竜小学校西隣にあった。屋敷自体はないが、当時を偲ばせる石垣が残っている。
 このほか、大滝町、春日町、清水町など、この周辺一体には同家の中屋敷、下屋敷跡など、ゆかりの地が多い。特に、玉龍高校裏の山手にひっそりとしたたたずまいを見せる広大な島津家の墓地(斉彬もここに眠る)にも足を運びたい。また、西南の役で戦死した西郷隆盛をはじめとする薩軍将兵たちを合葬した南洲墓地や篤姫が娘時代を過ごした鶴丸城の跡にも足を伸ばしたい。
 
 今和泉島津家の本拠地であった指宿市内には篤姫が幼少期を過ごした屋敷跡が残る。現在は、今和泉小学校と指宿商業高校が建っているが、校庭には当時の石垣や屋敷で使われていた手水鉢、古井戸などが保存されている。
 このほか、今和泉島津家の墓地や武家屋敷の面影をとどめる町並みも残っている。

■ 篤姫館オープン


天璋院 篤姫  NHK大河ドラマ「篤姫」の放送開始に合わせて
  「篤姫館」が1月6日
   鹿児島市本港新町のドルフィンポート内にオープン
した。

 館内には江戸城内や篤姫の居室などのセットが置かれ、撮影に使われた豪華な打ち掛けのほか、篤姫役の宮崎あおいさんが着用した衣装4点も展示され、試着できる陣羽織も用意されている。
 このほか、コンピューター・グラフィックスによる江戸城や大奥を再現する大型ハイビジョンシアター、篤姫の生涯や時代背景を説明するパネルも展示されている。
 平成21年3月31日(午前9時―午後6時)まで開館。入場料は高校生以上500円、小中生250円。
 また、篤姫ゆかりの地、指宿市のふれあいプラザなのはな館にも1月12日、「いぶすき篤姫館」がオープンした。

天璋院 篤姫

▲ドルフィンポートの「篤姫館」
内部には大奥を髣髴とさせるセットがあり、来場者を驚かせる 

 

 

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